日本中医学会 評議員
日本健康美容鍼灸協会
北川 毅
本会の理事長である日本大学医学部脳神経外科学講座教授の酒谷 薫(さかたに かおる)先生が、「脳の養生法」をテーマとした極めてユニークな内容の書籍を執筆されました。
「脳の養生法」というタイトルを見て、不思議な違和感を感じる人も少なくないのではないでしょうか。「西洋医学」の分野では、「脳」は最も重要な臓器として認識されている一方で、「五臓六腑」を中心として人体の生理機能を解釈していた「東洋医学」では、「脳」の機能に関する認識がほとんどありませんでした。一方、病気にならないようにするための様々な方法である「養生法」は、「東洋医学」の特有の概念であり、「西洋医学」の分野にはないものです。
それでは、西洋医学の「脳」と東洋医学の「養生法」は、いかにして結び付いたのでしょう。それは酒谷先生の数奇な経歴を抜きにして語ることはできません。酒谷先生は、30代をアメリカのNew York大学医学部脳神経外科やYale大学医学部神経内科で過ごし、40代には、国際協力事業団(JICA)の派遣により、中国北京市にある日中友好病院で、6年間にわたり脳神経外科の指導医として勤務されました。そして、そこでの研究や診療を通じた中医師らとの交流により、次第に中医学の診断法や治療法に対する造詣を深めていかれました。中国では、西洋医学と中医学の相互の利点を高め、また、不足を補うことを目的とした「中西医結合」という取り組みが、国を挙げて行われています。「脳の養生法」という古くて新しい概念は、東洋医学の世界にはない脳神経外科の専門医が、本場の中医学に出会い、一定の時を経て、その知識と経験が熟成されたことによって生み出された「酒谷流中西医結合」の産物であると言えるでしょう。
例えば、「脳トレ」ブーム以来、脳に関する書籍が数多く出版されるようになりましたが、酒谷先生は、多大なストレスによって疲労している現代人の「脳」に対し、トレーニングによる負荷をかけるのはむしろ有害であり、リラクゼーションこそが、むしろ有益な「養生法」であると説いています。
中国の伝統医学の基礎が確立された紀元前の世界では、ひと度、「病」にかかると健康を取り戻すことが極めて難しかったため、病については「治療」よりも「養生」や「治未病」という考え方が重視されていたものと推測されます。翻って、現代においても、ペニシリンの登場などにより、一部の感染症などについては時代の先端医学が克服できたこともありましたが、一方では、鬱病や認知症など、西洋医学では治療することが困難な新しい形態の「病」が急増し、その限界や死角が指摘されるようにもなりました。ひと度、病にかかると、健康を取り戻すには極めて難しいという事実は、昔も今も本質的には何ら変わっていないのです。このような現状において「病人」を対象として、難しい「病」を治療することが優れた医療であるとされるなか、最先端の医療を実践する脳神経外科医が、現代人の「脳」に対する「養生法」の重要性を認識し、その利点を説いていることが、本書の最も特筆すべき特徴であると言えるでしょう。本書は、一般書として出版された書籍ではありますが、現代医療のあり方に対する豊富な示唆を含んでおり、医療に携わる全ての関係者にも、是非ともご一読いただきたい内容です。「ストレス社会」「長寿社会」を生きる現代人の「脳」と「心」を救うのは、「薬」や「先端医学」よりも「養生法」なのかも知れません。