第四話 『プロフェッショナル 留学の流儀』
~イケメンかつイクメン、脱サラ留学生~
某都市インターン生 脱サラ留学生
「おはようございます」と寝室から出てきた彼は笑顔でいった。朝、5時半。脱サラ留学生の朝は早い。 「病院実習の前に、子供を保育園に送るんですよ」。彼には3歳の娘がいる。「でもまず自分の朝食を済ませないとね」。彼は台所でチーズサンドイッチを作り、コーヒーとともに流し込んだ。「平日の朝はこういうシンプルなもので済ませます」と笑いながら、別室のドアを開けた。「朝のお通じも先に済ませます」。彼が向かった先はトイレだった。
『プロフェッショナル 留学の流儀』 イケメンかつイクメン、脱サラ留学生。
今回の放送は、中国で中医学を学ぶ彼の一日を追う。
「子供を起こす前にひととおり朝の用事を済ませるんですよ」。彼は洗濯機を回しながらいった。「その間に子供を起こします」。寝室に戻って子供にやさしく声をかける。「おぉぉぉはよぉぉぉ♡朝だよぉおおおお♡保育園にぃ行こぉおぉぉ♡」。背筋が凍るような猫なで声で呼びかけるが、子供は微動だにしない。「根気よく起こします。無理に起こすと機嫌が悪いので」。子供をみつめながらいう彼の顔は穏やかだ。ところで彼の妻は子供の隣で娘と同じような姿勢で寝ている。「妻を起こしてはいけません。下手に起こすと機嫌が悪いので」。彼は青ざめていた。我々は戦慄した。
どうにか起こした子供のトイレを済ませ、あれこれなだめつかせながら着替えと食事をさせる。子供のお気に入りは、食パンの上に卵焼きを乗せた「たまご☆パン」である。「イタダキ、マース」、子供は日本語でそういって、機嫌よく食べている。お子さんは日本語上手なんですか?「いやぁ、今の保育園はローカルの保育園なので、園児や保育士はみんな中国人なんですよ。自宅ではなるべく日本語で話すんですが、やっぱり中国語ばっかり覚えていきますね」、彼は洗濯物をベランダに干しながら答えた。合間に子供に声をかける。「パパの作った、たまご☆パン、おいしいぃぃぃでしょぉおお♡」「オーイシイ」「よかったねぇぇぇえ♡」。
「ゴチソー、サマァ、デシタ!」「さぁ保育園に行くよぉ~♡」「行くナイ!」暴れる子供を抱えて、彼は玄関を出た。「歩いて5分くらいのところにバス停があるんです。そこから保育園に向かいます」。彼は足早に歩いていく。乗り込んだバスの乗客は彼のみだった。「始発ですし、この時間ですからね」。彼は子供を膝にのせて座る。子供が窓の外を見るお気に入りの席なのだという。
バスは30分ほどかけて目的地に到着した。「おはようございます!」。子供と一緒に保育士に挨拶する。一番乗りである。「この保育園には、子供が半年のころから預かってもらっているんです。私立の小さい保育園なんですが、保育士はみんな熱心で優しいんですよ」。子供を保育士に預けた彼は、ポケットからスマホを取り出して操作し始めた。
なにをしているんですか?「あぁ、すみません。タクシーを呼んでいるんです」と彼は我々にアプリを見せてくれた。タクシー配車のアプリで、中国のマストアイテムなのだという。「病院に行くバスの路線、いま出勤ラッシュですごいことになっているんです。遅刻してしまうのでタクシーを使います」。毎日タクシーを使っている?出費がすごいのでは?「いえ、日本と違って中国のタクシーは安いんです。スタバのラテくらいの金額ですよ」と彼は答えた。
タクシーは我々が驚くほど早くやってきた。「便利でしょう?」。座席に座りシートベルトを締めると、リュックサックから本を取り出した。何の本ですか?「いま実習している科で参考にしている教科書です」。彼は表紙を見せながら答えてくれた。解剖学の本だった。「タクシーで病院に出勤して、車内で専門書を読む・・・むふふ、プロっぽくないですか?」。彼は憎たらしいほどのドヤ顔でいった。
・・・さん・・・ねぇ・・・着きましたよ・・・ねぇったら・・・
・・・ダメだなぁ反応しないな・・・。ったく、しゃーねーなぁ・・・
パアン!!脱サラ留学生さん、病院に着きましたよ!「はっ!・・・いや、やっぱり朝が早いとね。車の揺れが気持ちよくて」。彼は赤くなった頬をさすりながらいった。
既定の出勤時刻には20分ほどの余裕があるらしい。「コンビニで肉まんを買いましょう」。彼はすでにおびただしい数の患者でごった返している病院内をスイスイと歩いていく。「ちょっと食べておかないと、あとでお腹空いちゃうんですよ」。院内のコンビニ(ローソンだ)は大変な混雑だった。患者、看護師、医師でごった返している。「すごいでしょう?みんな朝ご飯を買うんですよ」といいながらレジの行列に並んだ。弁当惣菜、パン類のラックはすでに空っぽだ。脱サラ留学生は肉まんと豆乳を購入した。スマホを店員に見せている。何をしているんですか?「スマホ決済です。QRコードで支払いができるんですよ。コンビニ、自動販売機、公共交通機関、路上の果物売り・・・なんでもスマホ決済が浸透しています。財布なんてもうしばらく持ち歩いていないですね」。恐るべし中国。「決済だけではないんです。生活とアプリが様々な方面で連動しているんですよ。スーパーの配達や、レンタルバイクもスマホで操作です。こういった面は日本よりも便利ですよ」。
「次は事務所に出勤のサインをしに行きます」。ある事務室の扉を開け、中の事務員に挨拶をしながら近くのデスクの上に置かれた名簿にサインする。「出勤と退勤時にここにサインするんです」。我々も名簿をのぞかせてもらった。あれ、学生によってはずいぶん抜けがありますね。それにほかの何人かはみんな同じ筆跡に見えますが・・・。「みんな適当なんですよ」と彼は笑った。「管理する病院側も含めてね」。
今はリハビリ科で実習しているという。診察室にはすでに医師がおり、ベッドの上の患者をマッサージしていた。挨拶をして、さっそく彼も医師の横で仕事に取り掛かる。医師の横で同じ操作をし、手技を学ぶのだ。「彼は僕よりも10歳若いんですけど、僕が弟子なわけです。指導を熱心にしてくれるし、性格も気さくで合うんです」と脱サラ留学生はいった。「性格が合うかどうかは運みたいなもんですけど、指導が熱心なのはありがたいですね。この病院のほかの科の指導医は、残念ながら熱心な人は少ないので」と彼は加えた。
ランチは病院が支給する弁当を食べるという。「10元で食べられるんです」と彼が見せてくれた発泡スチロールの質素な弁当箱には、肉・野菜のおかずと、山盛りの白米が詰められていた。いやいやいや、このご飯の量、多すぎね!?高校球児か!「びっくりしますよね、ご飯。学生食堂でも大量によそわれるし、一般的な食堂やレストランでも多いんですよ」。隣の医師はそのご飯(別パックになっている)をふたつペロリと平らげていた。
休憩後、午後の仕事が始まる。基本的には午前と同じように、医師の横で手技を行っている。実習はいつもこんな感じ?「そうですね、こんな感じです。馴染みの患者さんが多いんですけど、たまに初めて来る人もいるんです。そういう時は問診から診断までの流れを学ぶことができますよ」。と、ある年配の女性が診察室に入ってきた。医師と楽しそうにおしゃべりし、土産を置いて帰っていった。キャベツと人参とブドウである。医師がブドウを我々にすすめてきた。「彼女は以前診たことのある患者だそうです。これ、実家で摘んできたブドウだそうですよ、洗ってあるから食べましょう」。
やがて夕方の退勤時刻となった。事務室でサインを済ませて病院を出る。娘を迎えに行くのだ。朝と違ってバスで向かう。保育園に到着して子供をピックアップする。別の母親が子供を迎えに来ていた。「遅れちゃうよ!はやく支度しなさい!」と急かしている。何に遅れてしまうんでしょうね?「あの子はこの後英会話教室に行くそうですよ」と彼は答えた。英会話教室?保育園児が?「ねぇ、驚きますよね。でもそんなに珍しくないみたいですよ、ほら」と彼は保育園の周りを指さした。いま気づいたが、確かに保育園の周りは塾だらけだ。英会話、補習塾、絵画教室、音楽教室、書道教室・・・。「中国の子供は小さいうちから習い事ばかりで大変だっていいますよ。ウチはのんびりやりたいんですけどね」と彼は笑った。
1時間ほどバスに揺られてようやく自宅に到着したときにはもう19時になっていた。
テキパキと子供の服を脱がせてお風呂に入れる(二人は、お風呂入るよ、入るナイ!とやり取りしていた)。晩ご飯はどうするのか。「子供は16時半ごろに保育園で食事を済ませているんです。早いですよね、でもどの保育園も似たようなものらしいですよ。自宅ではバナナなどの果物をあげますね。」と彼は冷凍ご飯をレンジに入れながら答えた。「これは僕の晩ご飯。子供にあわせて早く寝るので、そんなにたくさん食べないんですよ」。ふりかけをご飯にかけて、彼はおいしそうに食べている。
「妻はまだ帰宅しません。仕事が忙しいんです。平日は子供と会う時間が少なくてちょっとかわいそうですね」と彼は子供からバナナの皮を受け取りながらいった。「なので僕は家庭『主夫』なんです。育児は大変かって?まぁ、それはね・・・。でも、娘ですからね、将来は『パパのパンツと一緒に洗わないで!』とかいわれるかもしれないから、ベタベタできるうちが華、ってわけです」。
21時になると、彼は子供に呼びかけた。「はぁぁあい♡、ネンネの時間ですよぉぉおお♡ネンネしましょうねえええええ♡」「寝るナイ!」。彼は子供を抱き上げた。「この時間になると寝室に連れていきます。なかなか寝付いてくれないんですが、仕方ないですね」。子供はまだギラギラ燃え上がるような目つきをしている。「僕も、最後は娘と一緒に寝ついちゃうんですよ。お疲れさまでした」と彼は寝室のドアを閉めた。
『プロフェッショナル 留学の流儀』 イケメンかつイクメン、脱サラ留学生。
彼はそれまでのサラリーマン生活を辞め、中国にやってきた。留学でこれまでの生活を一変させたわけだが、子供を産むことは計画していたことの一つだという。日本時代は猛烈な仕事中毒で、結婚後も子供をもつ機会がなかった。
回想シーン
「僕ね、昔はそんなに子供って好きじゃなかったんですよ」。へぇ、意外ですね。「不思議ですよね。自分の子供ってすごい可愛いんですよ。食べたくなっちゃうくらい」。俗にいう『目に入れても痛くない』ってやつですね。「それにね、いまは街で見かける子供みんなも可愛く見えちゃうんですよね。それこそね、えっへっへ、食べたくなっちゃうくらい・・・」。それは自重したほうがいいですよ。 例えば定期テスト期間のような、学業との両立は簡単ではなかったと彼は振り返る。妻は中国の会社に勤め、かつて彼が日本でそうしていたように、生活費を稼いでいる。「僕はまだライセンスを取得していないから、もう少し奥さんの稼ぎに頼ることになります。頭が上がりませんよ」。彼の『留学』はまだもう少し続く。
「ネンネだよぉおお♡ネンネしようねえええええ♡」「寝る、ナイー!」寝室に入って1時間半が経過したが、子供はまだ寝ていないようだ。
終。
※歌詞はkōkua「Progress」(スガシカオ作詞)より引用
第四話 了