日本中医薬学会

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週刊「中国からの留学生便り<崔衣林>」ドラマ「老中医」を見る前に

2019.03.09 カテゴリー:中国からの留学生便り

ドラマ「老中医」を見る前に

北京中医薬大学博士課程 崔衣林


前回から続く

 世界的に認められつつある中医学ですが、実は約100年前には政府から「中医廃止案」が出され、絶滅の危機にありました。20世紀初期、民国時代の上海では、中医学の存続をかけて、命をかけて中医学を守った中医師たちがおり、それが今回のドラマの舞台となっています。主人公は“孟河医派”を伝承した名医である翁泉海。ドラマの内容はお楽しみということで、見るにあたり必要な知識をご紹介させていただきます。

■孟河医派とはどんな流派?

 起源は張仲景の「傷寒論」と同じ東漢時代に遡り、江蘇省武進長江にある孟河という街で発生しました。歴代には宋の時代の許淑微、明の時代の王肯堂など名医がおり、清の時代にはより学術が深まり、特に孟河流派の四大医家である費伯雄、馬培之、巢渭芳、丁甘仁を中心として基礎が確立されました。費伯雄の孫である費縄甫は危篤、大病、奇病、救急病を得意とし、上海で有名だったそうです。馬培之は瘍科(外科医)でしたが、1880年北京で慈溪太後の治療にあたり、内科で有名になったそうです。馬培之は多くの医師を育てました。巢渭芳、丁甘仁も彼の学生です。その丁甘仁は上海の一大名医となり、中医学院を設立し、多くの名医を育てました。著書である《丁甘仁医案》は現代においても多くの医師が学んでおります。彼の学生には上海の名医である章次公がおり、章次公の学生には名老中医の朱良春がいます。

■本場中国でも中医废止案があった?

 日本の明治政府同様、中国でも西洋の文化が入って来るにつれて伝統医学の立場が弱くなり、廃止しようという動きが出てきました。1929年、国民党政府行政院長が中医学の廃止を主張し、南京国民政府衛生部が同意、中央第一次衛生委員会議においても廃止案が通ってしまったのです。日本同様、これに反対し、政府に訴えるだけでなく、治療効果でも実証してみせたのです。その際に湯本求真の「皇漢医学」を掲げ中医学の科学性を訴えたそうです。当時、湯本求真が有名だったことを証明する物語があり、清水藤太郎が北京で名医である施今墨の診療にかかる際、湯本求真の弟子であると名刺に書き添えて出したら、多くの患者さんが待つ中、すぐに診察室に通してくれたそうです。施今墨自身も華北中医請願団を組織し、南京へ「中医廃止案」を主張した汪精衛を訪ねたそうです。その際、汪精衛の義理の母は重度の痢疾にかかっていましたが、施今墨はこれを一診で完治させることで中医学の治療効果を実証し、1936年には無事に中医学は認められるようになりました。

 満州国政府は1940年、漢方廃止か存続かの選択に迫られ、日・満・鮮の代表会議を開き、満州からは岡西為人、朝鮮からは杉原徳行、東京からは龍野一雄および矢数道明が参加し、存続再教育、試験制度、国立研究所を設けて、新しい発展策が決議されました。

 その後、フランスでは鍼術の研究をはじめ、ドイツにも影響しました。日本の鍼灸も積極的に取り入れ、1955年には柳谷素霊がフランス国際鍼灸会に招聘され、フランス、ベルギー、西ドイツの学会で日本の古典鍼灸術を紹介し、フランス・パリ鍼学会顧問に就任されたのです。1976年にはWHOが東洋医学を採択し、現在では多くの国で法律の整備がなされ、中国伝統医学が実践されているのです。

 日中両国で起こった伝統医学と西洋医学の争いはその時代で終わったわけではありません。一部は今もなお残っているのです。日本では漢方薬を保険適応外とする動きがあったり、中国でも中医学を批判する声は少なくありません。そんな中、私たちは争うのではなく、中西医学両方の知識を吸収し、より良い医療を目指す必要があります。このドラマを通して中医学がどのような歴史を経て今に至るのかを知り、私たちが中医学と出会い、専門として業にでき、医学の発展に欠かせない平和な時代に生まれてきたことに感謝の念に堪えません。そして私たち中医学を学ぶものは、時代の任務として中医学の発展に貢献する必要があると思います。


<外部リンク>

ドラマ「老中医」の紹介記事(中国語です)

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