日本中医学会 顧問
東洋学術出版社 会長
山本勝司
日本中医学会顧問 猪越恭也先生が4月2日、ご逝去されました。
元気の塊のようなあの猪越先生が、もうこの世におられない。
中医学導入期に大活躍された第一世代の先生たちが次々と亡くなられる。1つの時代の転換期を覚える。
人に紹介されてはじめて猪越先生に会いに吉祥寺のイスクラ診療所を訪れたのは、40年前の1980年春でした。
東洋学術出版社を創業し、『中医臨床』創刊号の企画を考えている真っ最中でした。当初予定していた鍼麻酔関係の情報は、10年経過したこの頃にはあまり目立った話題になっておらず、創刊号の企画として何をテーマに取り上げればよいのかわからず途方にくれていました。もともと、前職を退社して、中国の雑誌文献を翻訳紹介しようと考えたのが起業の動機だったのですが、この頃、中国では文化大革命が収束して、排斥されていた中医学が復権を果たし、これから正常化しようとする直前でした。長く休刊されていた中医雑誌がぼつぼつ復刊され始めていました。
ところが、それらの雑誌にはすでに鍼麻酔の記事はほとんど見られず、代わって異様に目立ったのが「冠心Ⅱ号方」の情報でした。それがなにものなのか、私にはとても理解できません。そこで、初対面の猪越先生にその状況をお話をしたら、ぜひそれらの記事を読ませてほしいと申し出られたので、さっそく数十冊の雑誌をお届けしたら、数日後、「すごい論文ですよ。これは革命です。もう興奮して数日間徹夜で読んでいます」と猪越先生、大興奮の状態でした。「私にこれらの文献の翻訳と解説記事を書かせてください」と申し出られます。それが形になったのが、『中医臨床』創刊号の特集「虚血性心疾患・狭心症」と「漢方『冠心Ⅱ号』方」です。
「冠心Ⅱ号方」は、中国西苑医院の中西医結合研究チームが1970年代に開発した血流促進と血質の改善を促す方剤です。古典にもとづいた「活血化瘀」という治療方法の提起と丹参を中心とする新方剤の開発でした。この開発は40年を経過した今日でも重要な事業として高く評価されています。
『中医臨床』創刊号は日本の読者たちに大きな衝撃を与えたようでした。非常に強い反響を得ました。当時中国医学といえば鍼麻酔か鍼治療と考えられていたのに、新たに「中成薬」が主役として出現し、かつ「活血化瘀」という耳新しい概念が投げつけられました。日本での漢方医学のイメージとは大きくかけ離れた真新しい「中医学」の登場でした。
漢方は便利なものです。さっそく同方剤の臨床応用が始まりました。猪越先生が自分の患者さんに「冠心Ⅱ号方」と同じ構成生薬で煎じ薬を作って投与されたところ、すばらしい効果が現れてびっくりされます。幾人もの患者のデータがつぎつぎと改善していきます。先生はこのとき同方剤のもつ効果と「活血化瘀」という中医学の独特な治法の意味深さに確信をいだかれます。以降、先生は日本の臨床現場に中医学と「冠心Ⅱ号方」を普及定着させることに生涯を懸けられます。すぐに東邦大学五十嵐教授とともに「冠心Ⅱ号方」研究チームを結成し、様々な実験を行ったうえで、成都の華西医科大学薬学院製薬廠と共同で同処方にもとづく「冠元顆粒」が製造されます。そしてイスクラ産業(株)が大変な苦労をして薬事審議会、厚生省の認可を取得し、製造販売許可を獲得します。
猪越先生のすごいところは、単なる翻訳紹介に終わらず、「冠元顆粒」という方剤を製造して日本に持ち込み、さらに全国1000店の中国医薬研究会というチームを組織し、これを拠点に中医学を系統的に学習しながら普及する仕組みを作られたことです。現在その事業は猪越先生が育てられた後継者たちによって見事に引き継がれていると聞きます。猪越先生は「冠元顆粒」以外にも、日本にそれまでになかった多くの中国の名方をつぎつぎと導入されました。また、「お母さんのための漢方教室」を開催して、社会の底辺に向けて直接中医学の考え方を広げられました。
猪越先生の中医事業にかけた熱い情熱、もの凄い集中力、点から面へ広げる柔軟な構想力と実行力、そしてけっしてぶれない軸の太さには、感心させられ続けました。後年お会いしたときも、若い日と変わらず矍鑠として、中医を熱く語られます。
猪越先生は日本の中医導入期の最初の開拓者であり、先導者であり、指導者でした。『中医臨床』が猪越先生とともにこの大事業の一端に関われたことを光栄に思います。
猪越先生と時を同じくして、中医学に啓発された新進の若いリーダーたちが全国に澎湃として立ち上がり、燃えるような中医学学習運動を展開しました。まるで火柱が立つような意気盛んな一時代を形成しました。
いま40年を経て変革期を迎えているのかもしれません。若い次の世代が新しい時代を切り拓いてくれることを期待したいと思います。
猪越先生、安らかにお眠りください。